私は1965年、昭和40年の生まれです。
写真を整理していたら、こんなの、出てきました。
昭和50年頃でしょうか。
母のうしろに私、右手に妹、左手に弟がいます。
母は30代前半。
えくぼの浮かぶ、かわいい笑顔の母です。
この頃の母は義父母と同居し、家業の商店と、父の商売と、育児と家事で、てんてこ舞いだったはず。
父は私が生まれた年に、商売を始めました。
数年後、個人経営を法人に改組。資本金300万。
運転資金を銀行から借りるのに、自分の弟に保証人を頼み、断られました。
そして母の父、つまり父にとっての、義理の父親が保証人になりました。
父の弟にも家庭がありましたし、リスクを負うことはできなかったのでしょう。
でも、父の父親は50代で脳溢血で半身不随となっており、
大学進学をあきらめた父は、20代から、自分の両親と弟の生活を支えていました。
父の弟は静岡から東京の私立大学に進学し、費用は父が払いました。
父と母が結婚してからも父の弟が同居していて、よく遊んでもらったのを覚えています。
父の弟の結婚の際も、父がその費用と祝い金としての土地を準備しました。
だから保証人になってほしいと父が頼んだのか、それはわかりません。
その後も様々な軋轢があり、二人はほぼ絶縁状態でした。
母は、奥さんと賀状のやり取りをしていましたが。
父には商才もありましたが、なにより働き者で努力家、そして創意工夫の人でした。
両親はとにかく、よく働いたんだと思います。
借金は無事返済され、商売は起動に乗りました。
そんな父の欠点は酒。
酒に飲まれる人でした。
母が離婚しなかったのは、
➀子どものため。
②父の頑張りを尊敬。
③世間体。
かな。
個性的だった私の父。
小学生だった私の娘たちに、
「知ってる人のなかで、いっちばん変な人はだれ?」と聞いたら、
口をそろえて、
「じいじ!」と答えました。
その父を支えた母もまた、人並みではない負けん気と根性の人でした。
父が亡くなった時、荼毘に付すまで自宅に安置していたのですが、
いち早く駆け付けた父の弟(私にとっては叔父)がじっと父の顔を見つめていました。
父によく似た面差し。
彼には彼の言い分があったでしょうね。
物言わぬ父を前に、
「血は水より濃いけど、兄弟は他人のはじまり」などと考えていた私でした。
両親・私・弟・妹。
昔読んだ本に、
「育った家庭より、作った家庭を大事にすべし」と書いてありました。
育った家庭がキラキラ輝いていたような気がするのは、先に消えてゆくからなんでしょうね。
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