ダージリンママ介護日記

要介護5の実母79歳を介護した娘の日記 その後

私の昭和➀ 笑顔のかわいい人。

 

私は1965年、昭和40年の生まれです。

写真を整理していたら、こんなの、出てきました。

昭和50年頃でしょうか。

母のうしろに私、右手に妹、左手に弟がいます。

母は30代前半。

えくぼの浮かぶ、かわいい笑顔の母です。

この頃の母は義父母と同居し、家業の商店と、父の商売と、育児と家事で、てんてこ舞いだったはず。

 

 

父は私が生まれた年に、商売を始めました。

数年後、個人経営を法人に改組。資本金300万。

運転資金を銀行から借りるのに、自分の弟に保証人を頼み、断られました。

そして母の父、つまり父にとっての、義理の父親が保証人になりました。

 

父の弟にも家庭がありましたし、リスクを負うことはできなかったのでしょう。

でも、父の父親は50代で脳溢血で半身不随となっており、

大学進学をあきらめた父は、20代から、自分の両親と弟の生活を支えていました。

父の弟は静岡から東京の私立大学に進学し、費用は父が払いました。

父と母が結婚してからも父の弟が同居していて、よく遊んでもらったのを覚えています。

父の弟の結婚の際も、父がその費用と祝い金としての土地を準備しました。

だから保証人になってほしいと父が頼んだのか、それはわかりません。

その後も様々な軋轢があり、二人はほぼ絶縁状態でした。

母は、奥さんと賀状のやり取りをしていましたが。

 

 

父には商才もありましたが、なにより働き者で努力家、そして創意工夫の人でした。

両親はとにかく、よく働いたんだと思います。

借金は無事返済され、商売は起動に乗りました。

 

そんな父の欠点は酒。

酒に飲まれる人でした。

母が離婚しなかったのは、

➀子どものため。

②父の頑張りを尊敬。

③世間体。

かな。

 

 

個性的だった私の父。

小学生だった私の娘たちに、

「知ってる人のなかで、いっちばん変な人はだれ?」と聞いたら、

口をそろえて、

「じいじ!」と答えました。

その父を支えた母もまた、人並みではない負けん気と根性の人でした。

 

父が亡くなった時、荼毘に付すまで自宅に安置していたのですが、

いち早く駆け付けた父の弟(私にとっては叔父)がじっと父の顔を見つめていました。

父によく似た面差し。

彼には彼の言い分があったでしょうね。

物言わぬ父を前に、

「血は水より濃いけど、兄弟は他人のはじまり」などと考えていた私でした。

 

 

両親・私・弟・妹。

 

 

昔読んだ本に、

「育った家庭より、作った家庭を大事にすべし」と書いてありました。

育った家庭がキラキラ輝いていたような気がするのは、先に消えてゆくからなんでしょうね。

 

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