夕方、少しの雷鳴の後、バラバラッと大粒の雨が通り抜けた。
お盆前からの狂暴な暑さにうんざりしていて、
どうせこの雨も湿気を呼ぶだけ、と思っていたのに、
夕飯の買い物に行こうと家を出たら、外気がひんやりしていた。
体半分を玄関に戻して夫に、
「外、涼しいよ!」と言い置いて、歩き出した。
母を介護していた数年間の、2度目の夏。
あの日も夕方、思いがけない涼気が訪れた。
ベランダに出て涼しさを確認した私は、母を車椅子に乗せて散歩に出た。
川沿いの道をのんびり歩く。
すれ違う人みんなに、涼しいですねえ、少し楽ですねえ、母は今ちょっと落ち着いてい
るんです、と話しかけたいような気持ちで、私はニヤニヤしていたと思う。
何人かとは、微笑みあったかもしれない。
母も気分がよかったのか、優し気な表情をしていた。
ふと、短歌の一節が胸に浮かんだ。
「お母さん、気持ちいいね。こよい逢う人みな美しき、って感じだね」と言ったら、
少しして母が、
「月は?」と言った。
意味がわからなかった。
家に戻って、落ち着いてから調べてみた。
「清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人みなうつくしき」
与謝野晶子の歌だ。
私は、後半だけをなんとなく覚えていて、
母は全文を知っていたから、月は?と聞いたのだ。
本当に驚いた。
認知はかなり低下していたし、
筋道だった話はほぼできなくなっていた母なのだ。
「さっきの、与謝野晶子の歌なんだね。だからお母さん、月のこと言ったんだね、
私、知らなかったよ、お母さん、さすがあ!」
と大きな声で母に言った。
母の反応はなかったけれど、幸せな夜だった。
かつての母の片鱗を見て、
時々は、以前の母が戻ることがあるのだとわかって、嬉しくて泣いた。
お母さん、あの日は涼しくて気持ちよかったね。
2007年。
カラオケに興じる、母と私。
ノリノリです。
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